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インタビュー 第四回 対談『装甲騎兵ボトムズ』制作進行 富岡秀行氏 キャラクターデザイン 塩山紀生氏

 『装甲騎兵ボトムズ』制作スタッフ・インタビュー、第4回となる今回は、制作進行の富岡秀行氏とお馴染み塩山紀生氏のスペシャル対談!
 実は富岡氏のサンライズ入社以前から親交のあったお二人に、当時の思い出話から昨今のアニメ事情まで、存分に語り合って頂いた。今だからこそ語れる83年当時の恐るべき(?)制作環境と、そこから垣間見えたモノ作りに対するアツい想いとは?

■プロフィール

塩山紀生
昭和15(1940)年生まれ、熊本県出身。
昭和40年頃からアニメの仕事に携わる。
「無敵鋼人ダイターン3」でキャラクターデザインを手がけ、以降多くの作品のキャラクターデザインを手がける。


富岡秀行
アルバイトとして『太陽の牙ダグラム』制作参加
『ボトムズ』より制作進行になる。
その後多くのサンライズ作品を制作デスク、プロデューサーとして担当
現在はサンライズの取締役 制作本部副本部長を務める。


口は災いのもと?富岡氏の意外な入社経歴

塩山:富ちゃんとの付き合いは、もう25年ぐらいになる?

富岡:なりますかね。僕がサンライズにバイトで入ったのが、『ダグラム』の終わりの頃ですから。

塩山:あの頃の富ちゃんは、バネの効いた若者だったよね。どうしてサンライズに入ったんだっけ?

富岡:『ダグラム』の時に、当時の制作進行がみんな免停になっちゃったことがあって、運転できる人間が急遽必要になったんです。それで「物運びのバイトで3ヶ月ぐらい来ませんか?」って言われたのがきっかけですね。だから、アニメーションのアの字も分からないで入ってきちゃったような状態でした。

塩山:制作進行は、『ボトムズ』からだっけ?

富岡:5話からです。最初はね、簡単な仕事に見えたんですよ。実情をまったく知らなかったから、「なんでスケジュール通りにやらないんだろう?」ぐらいにしか思っていなくて。だから結構軽く引き受けたんですけど、いざやってみたらエライ苦労をする羽目になってしまった(笑)。辞めようかとも思ったんですが、「このままじゃ悔しいから、一回だけ完璧に進行させてみよう」と。ところが、いくらやっても上手くいかないんですよね!(笑)それで結局、辞めるタイミングを失って今に至っちゃったという感じです。

塩山:ホント、まさかこういう立場で対談する日が来るとは、お互い思ってなかったよね。

地獄を見れば心が乾く仁義なき制作エレジー

塩山:当時は制作進行も大変だったんじゃない?

富岡:確かに苦労は多かったですね。デジタル技術どころかFAXもなかったし、宅急便だってやっとはじまった頃ですから。

塩山:今はキャラだって何だって、ちょっとしたものならFAXやメールで来るもんね。

富岡:片道20キロとか30キロの距離なら宅急便ですし。当時は50キロまでは車で取りに行ってましたから。それもたった10枚の動画のために(笑)。

塩山:あの頃は富ちゃん、三郷の僕の家まで原画を取りに来てくれたもんなぁ。

富岡:『ガリアン』の最後のほうなんか、1日に3回は塩山さんのお宅まで伺ってましたもんね。しかもそれ以外に、動画と仕上げ(彩色)の発注と回収もしていたし。当時は国内の個人や小さいスタジオに全部バラで蒔いてましたから、これだけでもエライ時間がかかるんですよ。それこそ痔になるほど走り回らなきゃいけなくて、ほとんどの時間は車で過ごしてました。1日250キロとか300キロぐらいは走ってたんじゃないかと思います。



塩山:人数も少なかったからね。でも富ちゃんは、バイト上がりの割には淡々と責任を果たしてたし、酒のほうも付き合ってたし(笑)。

富岡:いや、『ボトムズ』の頃は、外ではほとんど飲めませんでしたよ。それに付き合うって言ったって、塩山さん体力すごいから、飲むとなったら破滅的に飲むんだもん。二日酔いどころか、四日酔いとかザラだったでしょ? 当然仕事になんかならないですから、大酒飲まれちゃうと僕ら進行は「どうすんだよ?」って立場だったじゃないですか!(笑)

塩山:でもそれを言ったら、進行さんもひどかったじゃない! こっちは朝の5時まで仕事してから家に帰って寝てたのに、それを知らない進行が朝出社した時に僕がいないからって、自宅まで起こしに来たりさ。

富岡:ありましたねぇ。スタッフに「進み具合はどうですか?」とか「出てきてくださいよ」って言って回るのも、僕ら進行の仕事だから。時々自分でも「借金とりよりひどい仕事だな」って、思うことがありましたよ(笑)。制作デスクだった山本さんだって、いまでこそ温厚だけど……。

塩山:あの頃の彼は、鬼軍曹だったよな!

富岡:出てこないスタッフに電報打ったりしてましたからね(笑)。そうすれば「必ず連絡してくるから」って。僕も何回かマネしたことがあるんですけど、さすがに心理的プレッシャーが強過ぎたみたいで、すぐに使うのやめましたよ。

締切りの重責に追われ現場はいつも混沌のルツボ

塩山:一人一人の責任も重かったよね。アニメーターだって「穴が開いたらウン千万だぞ」とか、脅かされながら仕事してたし。

富岡:重責を感じることは確かにありましたね。スケジュールもギリギリだったから、緊張感は常にあったかな。

塩山:日数的には、いまより随分マシだったんじゃないの?

富岡:『ボトムズ』は作画打ち合わせから、大体8週か9週で作ってたんですよ。今はそれだけあればいい方なのですが、当時としては悪い方でしたね。ただ、このへんは今の作品も含めて、制作環境によって全然事情が違うから、一概には言えないですけれど。
 例えば当時の第2スタジオで富野さんが作っていた『戦闘メカ ザブングル』は、アフレコもオールカラーだったし、完璧なスケジュールで進行していたんですけれど、それが可能だったのは早くから企画が決まっていて、そのぶん余裕があったからなんですよ。こういう構造的な問題は、今も昔も変わらないですね。『ボトムズ』の場合も、決まったのは早かったんだですけれど、オリジナル作品だから設定とかに時間を食ってしまったという事情がありましたし。

塩山:一番時間がかかったのはシナリオなんじゃないかと、僕は思っているんだけど(笑)。

富岡:大抵の場合はシナリオか原画かコンテですよね。いまも結局、遅れる理由はそれしかあり得ないですよ。ただ、オリジナルでシナリオに時間がかかるのは、ある意味仕方ないじゃないですか。

塩山:「ああでもないこうでもない」って始まっちゃうのは止むを得ないもんなぁ。それに動画のほうだって、時間がないから「とりあえず上げちゃえ上げちゃえ」ってムードだったし。

富岡:だからね、『ボトムズ』がこんなに歴史に残る作品だって最初から分かっていれば、もっとやりようがあったと思うんです。だけど当時はスケジュールがないからって、目の前の仕事を片付けるのに追われていて、いつも行き当たりばったり。結果クオリティ・コントロールの面では、ちょっと厳しい作品になっちゃったのは否めないですよね。アニメアールの谷口さんなんか、キリコの顔変えてきちゃうし(笑)。

塩山:谷口さんに限らず、『ダグラム』や『ボトムズ』の頃は、キャラの顔見ると誰が描いたか判っちゃったよね。しまいには「どれがホントの顔だろう?」って(笑)。さすがに『ガリアン』の頃から「もうちょっと統一しようよ」っていう風になっていったけど。

アナログ時代とデジタル時代それぞれで違う苦労

塩山:その点いま、制作進行は楽になってるんじゃない?

富岡:デジタルの発達と中国の生産力のおかげで、昔は絶対に短縮できなかった動画と仕上げで時間を稼げるようになったのが大きいです。『ボトムズ』の頃は、例えcz4000枚の動画は2週間なければ絶対に上がってこなかった。それが今は電話一本で相手が取りに来てくれて「4000枚なら2日でできます」ですからね。

塩山:つまり、動画まで来ればあとは早いワケだ。

富岡:ええ。それに今は、現像の工程がないでしょ? 僕、当時は塩山さんの家に日参する合間に、1日に3回か4回は、現像所にも車を走らせていたんです。普通は朝の5時頃と午後2時頃の2便で現像所に回すのですが、それじゃとても間に合わないから、無理言ってその合間にもねじ込んで。当然撮影さんは不機嫌になるから、下げなくていい頭下げてさ(笑)。いまはそういう苦労が一切ないですからね。データ管理とかがスケジュールを圧迫しているのは同じですけれど、昔のほうがやっぱり苦労しましたよ。その反面、求められる絵のクオリティが段違いだったりとか、違う大変さは出てきていますけど。

塩山:確かにアニメーターは、いまのほうが大変だろうね。絵がキレイに統一されてるのは当たり前として、『無限のリヴァイアス』では人物がベッドの端に腰掛けてマットレスが弾むだけの描写にも、結構な枚数使ってたし。僕なんかから見ると「すごいな、よくやるな」って。なのに、全盛期ほどギャラも良くないでしょ?

富岡:そうですね。物価は上がってるのに、原画の単価cw30年まえに比べcg1.5倍にもなってないのですから。

塩山:ホント、頭が下がるよね。みんな絵も上手だし。僕なんか、そういう若い人たちになんとかしがみついて、ここまで引き摺って来てもらったようなモノだよ。

『ボトムズ』に結実した「一所懸命な時代」の熱気

塩山:ただね、『ボトムズ』の頃には、いまとは違う熱気があったと思うんだ。みんなで一所懸命、泊り込みで徹夜して。冬場でもセントラルヒーティングなんかない、あの時代にだよ。

富岡:まあ徹夜は今もしていますけど、当時は石油ストーブですからね。

塩山:そうそう。あれをガンガンかけながら、みんな床の上にザコ寝してた。もう空気がムアーっとして、酸欠になりそうでさ。毛布なんかもみんなはいじゃうんだけど、僕は自分が寒がりなもんだから、いちいち掛けてやって(笑)。そんな状態で明け方まで仕事してた。あの頃はそういう熱気に酔ってるような、一種の梁山泊みたいな雰囲気があったね。
 それに比べると、確かにいまのアニメは内容的にも技術的にも物凄く進歩したけど、どっちがモノ作りの張り合いに優れるかと言えば、ちょっと悩んじゃうじゃない。あの頃のあの熱気が、面白い作品を作ってきたんじゃないかという想いは、やっぱりあるね。それはアニメだけじゃなくて日本映画もそうだし、もっと言えば日本の世の中全体がそうなんじゃないかな?

富岡:塩山さんの世代は、日本の高度成長を必死で支えてきたわけですからね。戦争にも負けて国全体が貧しかったけど、そのぶん上を目指して一所懸命に働けたと言うか。

塩山:「みんなでもっと頑張ろうぜ!」っていう、時代のエネルギーがあったと言うのかな。それに引き換え、今の日本は世界第二位の経済大国になったのに、毎日がどこか冷めてて、下らないじゃない。昔は元気のいい作品作れば日本中を慰めて、喜ばすことができたのに、それができなくなっちゃってない?

富岡:クリエーターは今も昔も必死で頑張っていますけど、周りの環境が厳しくなってるっていうのは、あるのかも知れないですね。

塩山:そうそう。確かにクオリティに関しては、僕も「ボトムズ最高!」なんて、とても言えないんだよ。当時はアニメ雑誌が次々創刊されて、コアなファンの「アニメは文化なんだ!」っていう主張も激しかったけど、実際の現場は常に混乱してて、行き当たりバッタリでモノ作っててさ。僕自身もそんなエラそうなコト言えなくて、むしろ生活のためであり、飲むためであり(笑)、好きな絵のために仕事をしてるっていう気分のほうが強かった。だけどいま振り返ってみると、あの時代にエネルギーを結集できたっていうのは、『ボトムズ』という作品にとっても、僕自身にとっても幸せなことだったと思うんだ。人間65歳にもなると、改めて自分に「ほかの人生はあり得なかったのか? 」って、問うてみることが多くなるんだよ。でもやっぱり、ありそうにないものね。
 だからさ、こうなったら僕も、くたばるまでは自分のモノ作りに邁進するよ。あと3年ぐらいはやれそうだからな。

富岡:いや、3年じゃないでしょ。もっと頑張ってもらわないと困りますって!(笑)

※2005年に発売されたDVDメモリアルボックスの際のインタビュー・対談のアーカイブです

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