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インタビュー 第三回『装甲騎兵ボトムズ』プロデューサー 長谷川徹氏

 『装甲騎兵ボトムズ』の成立過程で、陰に日なたに尽力したスタッフたちのインタビューをお送りする本コーナー。
 第3回は、プロデューサーである長谷川徹氏のご登場とあいなった。広く作品全体を俯瞰し、企画立案からマーチャンダイジング、関係各方面との折衝までこなす総司令官が見た、83年アニメ製作現場の戦場風景やいかに!?

■プロフィール

長谷川徹
アニメーション・プロデューサー。タツノコプロに入社後アニメ製作のキャリアをスタートし、サンライズに移籍後は『勇者ライディーン』(75)、『伝説巨神イデオン 接触編/発動編』(82)のプロデューサーに就任。以来『装甲騎兵ボトムズ』TV本編、『ミスター味っ子』(87)TV本編などと、『赫奕たる異端』を除くOVAシリーズの制作に携わってきた。現在はスタジオぎゃろっぷで『遊戯王GX』などで手腕を奮っている。


『ボトムズ』誕生は、「はじめにATありき」だった!?
――プロデューサーといえば企画立案時点から以降のすべてを取り仕切る、いわば「作品のドン」というイメージがあるのですが?

長谷川:あの時代のプロデューサーは、あくまで裏方でしたよ。当時はまだ、プロデューサーが企画書を持ってスポンサーや局や代理店に営業して回るっていう風でもなかったですし。どちらかと言えば、社長以下のトップが決めた企画を橋渡しされて回していく立場でしたね。『ボトムズ』にしても、やはりまず『太陽の牙ダグラム』のヒットありきで成立しています。『ダグラム』では、スポンサーのタカラさんがリリースした「デュアルモデル」っていうオモチャが大成功したんですよ。で、「じゃあこの流れでなにかもう1本やろうよ」っていう話になったと。やはりオモチャ屋さん絡みですから、動きとしてはまず商品開発関係からになるんです。
 その点では、すでにこの段階で、大河原さんが「こんなのやったらイイんじゃないの?」っていう、のちのATにつながる立体の試作品を出してきていて、それがすごく刺激になりました。それを見て良輔さんも「これで行きたい」と。タカラさんも『ダグラム』当時から、スケールモデル的なムードを大事にしていましたから、即OKしてくださった。キャラクター商品との二人三脚がはじめから上手く機能していて、そのなかから自然に生まれた格好ですね。

――まさに大河原さんの試作品ありきで、すべてがはじまったワケですか。

長谷川:ええ。ただ結果として、主人公メカは量産型で、「専用AT」はないとか、「メカのコックピットの中でだけ安心して眠るようなヤツ」というキリコの人物像も、メカデザインからの逆算で早くから生まれてはいます。キャラクターありき、物語ありきっていう方向性は、あのメカだからできたようなものです。

――ただプロデューサーとしては、あの野心的なATのデザインにOK出すのって、勇気がいりませんでしたか?

長谷川:あの頃はサンライズも結構仕事が来てましたから、そのへんは割りとずうずうしく、「作りたいモノを勝手に作ってる」みたいなところがあったんですよ。だからあのATを見て「こんな地味なロボットじゃコドモ受けしないだろ?」とかは、あまり考えてなかったですね。だから、あとでATの絵がついた子供用のお茶碗とか絵本とかを見たときには、愕然としましたよ(笑)。やはりタカラさんのマーチャンのためだけに企画を動かしちゃったようなところはありますが、営業からも「メカにはちゃんと赤青白を使ってよ!」みたいなコトは、一切言われた覚えがないんですね。
 まあ、当時はサンライズの外の環境も、今ほどシステマチックではありませんでしたから。『ボトムズ』の時は代理店の担当者も打ち合わせに毎回顔を出すワケじゃなかったし、テレビ局に至っては担当者もいませんでしたからね。もう事実上投げっぱなしで、納品しにいくだけでした。

――つまり、タカラサイドなり良輔さん以下のスタッフなりが、好きに暴走できる環境が整っちゃってたわけですね。

長谷川:そうです。しかも代理店さんの担当部署の一番エライ人は東映動画出身で、アニメに理解のある方だったんですよ。だから「難しいストーリーなんで、いままで見逃してた視聴者のために総集編を放映したいんですけど」って言えば「じゃあしょうがないですね」とか、結構融通が効きましたし。なんのことはない、ホントはスケジュールが遅れてたからなんだけど(笑)。代理店さんが当時どれほどアニメに希望を持ってたいたかは分からないですが、タカラさんが動いている以上は庇護してくれたんでしょうね。いずれにせよ今のように、アニメにコンテンツビジネスとしての可能性をみて、ギラギラしたりは誰もしてなかった時代でしたから。

――確かにいまから考えると、よく周りが納得してくれましたね。

長谷川:『ボトムズ』だって、視聴率取れたわけでもないのにね。やはり当時はまだ、商品化と連動した映像が流れてるっていう程度の認識だったのかもしれません。それと、当時流布していた「本放映で視聴率を取れない作品のほうが、あとあと来る!」みたいな伝説も、影響したのかな。

――それこそ「ガンダム打ち切り伝説」みたいな?

長谷川:そうそう(笑)。おかしなことに、ホントにそういう風潮は、実際にあったんですよ。

苦戦続きのなか奮闘したアニメアールの貢献度
――実際にGOが出てからのお仕事は?

長谷川:スタッフ集めをはじめ、内政的な部分ですね。印象に残ってるのは、良輔監督の下に助監督的な役割で滝沢君を据えたこと。良輔さんは脚本は押さえますけど、絵コンテに手を加えるタイプの人じゃないんですよ。その辺を滝沢君がフォローして、ボトムズ的な画郭と映像を作ってくれました。塩山さんについては、ダグラムからの流れで良輔さんと懇意になってましたから、ある意味カップリングされてましたね。もっとも、描いてもらったイメージ画はピタリとハマってましたから、僕が人材を探すまでもなかったですけど。同様に大河原さんも、商品化との絡みで外せない方でした。スコープドッグのネーミングは、僕が提案しましたよ。
 ただ、実際に原画や動画の作業に入ってからは、あんなに線が多くてリアルなメカは描くのがしんどいですから、集めた人がみんな嫌がって嫌がって(笑)。同じロボットものでも、巨大ロボット的なヒーロー性で描けるものだったら、好んでやってくれる方もいたんですが、ATの設定画の束を持ってくと、みんな引くんですよ(笑)。おかげで正直TVシリーズは、絵のクオリティという意味では、ちょっと悔いが残ります。とは言うものの、大阪のアニメアールのスタッフが入れ込んでくれたんで、そのノリが随所に出始めてからは、見た目も良くなってました。彼らが一生懸命、真剣にボトムズらしさを追求してくれたおかげで、メカアクションに絵コンテでは描かれていない醍醐味が出ていますよね。CGがないあの当時に、ゴーグルの視界に映るデータとかを細かく描き込んでくれたりして、メカモノとしてのムードを盛り上げてくれましたから。キャラクターにしても谷口さんみたいに、キリコに入れ込んじゃって塩山さんのデザインと変えちゃう人まで現れたし。

――でも、キリコの顔が話数によって違っちゃうっていうのは、プロデューサー的には困ったコトなんじゃないですか?

長谷川:まあ、お話で見せる部分が大きかった作品だったのでね。一応塩山さんも直してみたりはしたんですが、顔だけ直しても身体のバランスが違ってくるなど、話し合いの結果「まあ谷口キリコは谷口キリコで、しょうがないやね」みたいなとこに落ち着いちゃいました。「1話おきに出てくるわけじゃないし」って流しちゃった部分もありましたけど、逆にアニメアール流の激しいメカアクションには、谷口キリコじゃないと合わないっていう側面もありましたし。
 やはり、アニメーターとしての塩山さんはオーソドックスなスタイルなんですよ。アニメアールさんはそうじゃなくて、レイアウトのとりかたひとつとっても斜に構えたようなカッコ良さがある。だから僕の立場としては、アニメアールさんがあれだけ頑張ってくれてるから、なんとかメカものとして成立してるっていう想いが結構あったんですよね。逆に「そのスタッフのノリを潰すワケにはいかんぞ」っていう部分も、ちょっとあったしね。

人を組み合わせるプロデューサー業の醍醐味
――当時製作デスクだった山本さんの証言では、ほかの作画陣に関しても、他社でエースだった方を長谷川さんの顔で集めていたそうですが?

長谷川:確かにその点では、20代の半ばから制作デスクをやり、30代でプロデューサーに昇格したという流れから、キャパが足らなくなるとあちこち遠慮なく相談してましたから、自然と人脈のネットワークは広がっていましたね。実はこの「人を組み合わせる楽しみ」っていうのが、プロデューサーの醍醐味なんですよ。自分で作品象を思い描いたときに、「この人とこの人を組み合わせたら、何倍も力を発揮できるはずだ」とか、そういうのを面白がってやれるのが。もちろんその中では、新たな人の連鎖が無限大に起こるわけですから、それをまた次の作品に反映したりね。

――それはやはり、ご自身のキャリアがあって可能だった部分なんでしょうか?

長谷川:キャリアもそうですけど、キャラクターも大きかったんじゃないかと思います。やはりなかには、まず頭で計算して「あの人はやってくんないだろうな」とか「あそこはガード固いだろ」って、ブレーキをかけちゃうプロデューサーもいると思うんです。でも僕は方々のスタッフ群に首を突っ込んでましたから、「いきなり電話したらヤバいかな」と思いつつも、まずはコンタクトをとってお近づきになってみるタイプでしたからね。懐に入ったほうがいい形で反応してくれるケースも多いっていうのを、経験で知ってたんです。だから一見スタッフが集まりそうもない企画でも、ちゃんと集める自信はありましたし、それを楽しんでもいましたから。なかにはミスマッチだったケースもありますが、そこは段々練れてきて、結果向いている人材だけが固まったりするものなんです。でなきゃ4回も舞台が変わる作品なんて、「採算が合わないよ」って断られちゃいますよ。気心の知れた仲間を集められたからこそ、無理もしてもらえたんだと思います。

すべてに追い風が吹いていた83年という黄金時代
――お話を伺ってると、色々無茶をしてるにも関わらず、全部がいい方へ流れていったように感じますね。

長谷川:何年か経ったら、いきなり東芝映像ソフトさんからOVAの話も来ましたしね。当時はどの会社も、ビデオ用の映像ソフトを揃えてた時期だったですが、そうなると各ジャンルをすべてそろえなきゃならない。当然そこにはアニメーションも含まれるんですけど、全部の会社がソフト持ってるわけじゃないんですよ。そこで「じゃあ自前で発注してそろえましょう」となったときに、東芝の担当者が『ボトムズ』にしちゃったんでしょう。たぶん、うまく上を丸め込んで(笑)。

――時流も追い風になっていた?

長谷川:OVAはコスト計算もしやすかったですしね。TVシリーズはコスト計算はできても「1本いくら」っていう勘定はできないんですよ。それがOVAだと、「1万円で1万本売れたら1億円だぜ」と(笑)。しかもクリエーターとしては、TVコードからも自由になって作品が作れますし。そういう黎明期の追い風は、確かにありました。だって『ボトムズ』の初期OVA、60分ですからね。見応えの点では、もう映画ですよ。それぐらい予算もかけられたし、サービスもできたんです。いまはスケジュール的にも予算的にも、そうはいかないですから。
 その意味では、やはり『ボトムズ』は、ある種の黄金期だからこそ生まれ落ちることのできた作品なのかもしれないですね。

※2005年に発売されたDVDメモリアルボックスの際のインタビュー・対談のアーカイブです

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