山本之文 小原正和 長谷川徹 対談 富岡秀行:塩山紀生 対談 高橋良輔氏:大河原邦男氏
山本之文氏インタビュー
 DVD−BOX発売まで、いよいよカウントダウンとなった『装甲騎兵ボトムズ』!
 その特典ブックレットには、高橋良輔監督以下、制作に携わったクリエーターたちの生々しいインタビューが収録予定で、早くもファンの期待を集めている。
 そこで本コーナーでは、クリエーター諸氏とはまた違った立場で『ボトムズ』に関わったスタッフたちの証言を基に、当時の時代性や空気感を探ってみよう。
 記念すべき第一回は、制作デスクの山本之文氏。数々の裏話から透けて見える、83年のアニメ業界事情とは!?
プロフィール
山本之文氏 山本之文
高橋良輔作品には『サイボーグ009』より制作進行として携わる。
以後制作デスクとして『太陽の牙ダグラム』『ボトムズ』『機甲界ガリアン』を担当。
現在はサンライズ総務部次長を務めている。
『ボトムズ』以前、アニメの作画は職人仕事だった!?

――まず最初に、アニメーションにおける「制作デスク」というポストの具体的な仕事内容を教えてください。

山本:簡単にいえば、制作初期にプロデューサーが決めた全体の予算やスケジュールに、実際の作業工程を合わせる仕事です。要は遅れが出たスタッフと「どうしましょ?」って相談したり、解決する役割ですね。例えば『ボトムズ』では、「影抜き」と呼ばれる省略した絵の設定も、私が用意しています。と言うのも、少し前の『イデオン』では、宇宙服のヘルメット・バイザーの色ごとに、その向こうにある肌や壁の色まで細かく設定してあったんですよ。おかげで色指定が200色ぐらいにまで膨らんじゃって、自宅で作業してる方から「絵具が置けない」と言われてしまって(笑)。その時に「外部スタッフさんのことも考えてあげないとなぁ」って痛感したものですから、『ボトムズ』では「宇宙空間では影はこんなモンでいいです」とか「ロングショットの線はこのぐらいまで省略OK」っていう見本を作ったと。もちろん、監督以下スタッフに確認はとりましたけどね。

――当時の制作環境はどんな風でしたか?

山本:まず当時は、原画や動画といった作画スタッフの布陣が、大きな転換点を迎えていた頃だと思います。
 それ以前の漫画原作を主体とするアニメーションの頃は、いわば職人的なアニメーターの時代だったんですよ。ベテランともなると、テレビシリーズの1話を1人が前半150カット、もう一人が後半150カットと作画監督を担当して、2人で回していたぐらいです。個々の力量もあったし、線も少なかったし、キャラも「原作を設定画がわりにしてください」で済んでましたから、動画の方は2年3年のキャリアで月に1000枚、ベテランなら2000枚ぐらいは描けちゃったんですね。もちろん動画は一枚いくらの世界なんで、収入も多かったですよ。スゴイ人になると1本丸々担当してましたから、作画監督料まで含めて当時で100万ぐらいは稼いでいたものです。当然そのクラスの人に指なんか怪我されたら大変ですから「キャラ描けなくなるからボーリングはやっちゃダメ」って言われてました。「俺は腕一本でこんだけ稼げるんだ」っていう誇りも強かったんですね。もちろん当時のサンライズも、フリーのアニメーターさんを中心に発注していました。
 ところが、オリジナルのロボットアニメを作りはじめて以降、設定も絵の線も異常に増えてしまいましたから、そんなペースでは描けっこないですよ。こうなると、漫画原作畑のアニメーターさんは「数をこなせないんじゃ採算が合わない」って、『ダグラム』が終わったあたりから、どんどん逃げてっちゃった(笑)。『ボトムズ』の頃は、まだそういう職人さんも参加してくれていましたが、富野さんの作品などでサンライズが飛躍しようとしていた一方で、古株のアニメーターさんにとってはキツい時代になっていったんです。
 その点、大阪のアニメアールさんのような作画スタジオはチームで動いてますから、誰かが困ってると他作品のメンバーが助けてくれるんですよ。まあそのぶん、切羽詰ってくると「あれ、コレ誰の絵だろう?」ってこともあったけど(笑)、制作の流れから言えば頼み易かったし、上手く機能していったわけです。
「総作監」制でも上手く描けない、戦慄のキリコ・フェイス!

 同様に、当時は「総作画監督制」が芽吹こうとしていた時代でもありました。前半と後半の2人で回せる作品なら、極論すれば専属の作画監督なんか必要なかったんですし、一方タツノコプロのようなリアル系の絵にも、すでに「タツノコキャラ」みたいなカラーが出来上がっていました。ですから、そういう会社でメインを張っている方に発注すると、どうしてもキリコの顔がタツノコっぽくなっちゃうんですね(笑)。さすがにそれはマズイので、まずはクオリティ・コントロールのために各話作監というポジションが生まれて、それでも間に合わないと総作監が全体のトーンを統一するようになっていったわけです。ウチの場合は『ボトムズ』の少しまえから総作監制を導入していて、ご存知の通り『ボトムズ』では、キャラデザインを手がけた塩山さんご自身が勤めています。
 ただ『ボトムズ』に限って言えば、困ったことに塩山さん独特のタッチを、周りが誰も描けなかったんですよ!(笑)よく見直してみればお解かりになると思いますが、明らかにいまのアニメの線と違う、強弱のあるリアルな線で、これがないと表現できないのが塩山キャラなんです。もうこうなると、漫画風の一本線キャラを描いてるような人には、決して描けない。そうじゃないアニメーターさんにとっても描くのが難しくて、嫌がられたましたね。事実アニメアールさんに頼んだ絵とか、全然違うキャラになっています。やはり総作監とは言え、塩山さんが全部手を入れるのも物理的に不可能でしたから。結果、ひとつの作品に二人以上のキリコが混在してしまいました。

 一方でセルに色を塗る仕上げさんからも「キリコの髪のハネをやめてくれ!」って、よく言われました。彩色は一本の太めの筆で、筆先の細かいところまで一気にやるんですが、そうすると髪の毛のツンツンした部分がすこぶる塗りにくい。だから時間がなくなってくると、キリコの髪のツンツンが丸く塗られてたりするんです。とにかく全体に、クオリティ・コントロールという意味では、ちょっと惜しまれる面はあります。ただそういう無茶な試みが、アニメを志す当時のマニア層には強くアピールしたのも確かです。実際、のちにウチに来たアニメーターにも「私は塩山さんのあのリアルな線のキャラが描きたくて来たんです」っていう人が、かなりいましたしね。
高橋監督作品はスケジュールが大変!

――高橋組はスケジュールが大変というお話も、よく聞きますが?

山本:スケジュールはもう、良輔さんとやったのはみんなひどかった! 一番時間がかかったのは、たぶんシナリオ段階ですね。
 これは良輔さんがよく使う手なんですが」メインのライターさんに「まあやってみてよ」って丸投げして、ポイントだけ伝えてとりあえず書いてもらって、それを叩き台にしてさらに膨らませていく。元になるものがないとはじまらないタイプなんです。五武冬史さんなんか、良輔さんとはコンビ長かったけど、苦労してたと思いますよ。「良ちゃんがさぁ」って、いつも言ってましたから(笑)。
 ただ、そうやって膨らませた結果は、いつの間にかちゃんと良輔世界になってるんですよね。『ボトムズ』も全体が4パートに分かれていましたけど、起承転結のまとめかたが上手で、その構成力には本当に感心します。逆にそのぶんだけ、細かいところで人に頼るのも上手い。もちろんその結果、自分が考えてたものと食い違いも出てくるんだけど、良輔さん曰く「自分の意向は6割反映されれば充分」だそうですから。『ボトムズ』はまさに、そういう作品なんですよ。だから、良輔さんの作品はスケジュールが大変なんだけど、監督を悪く言う人は誰もいないんです。まあ、最後は酒でまとめてたのかもしれませんけどね(笑)。
 それと『ボトムズ』には、滝沢さんという一種の「準監督」みたいな人がいまして、絵コンテを専門に作業とチェックしていたんですよ。もちろん高橋監督も見てダメは出すんですが、一説には「監督より多くの決定を下した」とも言われていた人物で。こういう人が4週に1回担当してくれると、月に1度は確実にコンテがスケジュール通り上がりますから、すごく助かるんですね(笑)。たぶん滝沢さんのような存在は、のちのスペシャリスト的な作画監督の走りだったんじゃないでしょうか? この当時には、まだ「キャラはデザインした人が描くもの」っていう不文律のようなものもあったんですけど、『ボトムズ』にしてものちのOVAでは塩山さん以外の方が作監を担当して、ちゃんと成立していますからね。
過渡期に生まれた『ボトムズ』にいまも残る「体温」

――まさに当時は、現在のシステマチックな作業工程と、それ以前を分ける過渡期だったわけですね。

山本:実制作から放映までの期間は現在の倍ぐらいありましたけど、ひとつひとつの作業にかかる苦労と時間は、いまよりずっと膨大でしたからね。コピーは高くて遅かったからメイン設定なんは作画作業前にいちいち印刷だし、輸送機関も貧弱だったし。システム化を図っていたとは言っても、完全分業制の現在より一人の負担は大きくて、おまけに監督のチェックを取ろうにも、携帯電話がないでしょ? 制作には「いま持って来ないと間に合わない」って突付かれるから、結局は飲み屋に監督捕まえに行ったりね。むしろ「飲み屋にいてくれてよかった!」とか「飲み屋で待ってるのが確実」とか、そういう時代ですから。チェックを受けに行く方は、イヤだったと思いますよ。気持ちよく飲んでたり寝てたりする、お父さんぐらいの世代の人を追い掛け回すんですからね(笑)。
 ただ、やはり一種の熱気とか体温みたいなものは、あったと思うんです。良輔さんや塩山さんより下の、いわゆるアニメマニア世代も、会社にあったビデオを観ながらしょっちゅうアニメ談義をしてたし。我々制作陣にしても、まだ「頼んでるアニメーターさんには食ってもらわなきゃ」っていう余裕があったから、新人さんには「メカばかり描いてちゃ喰えないから」って、キャラも描いてもらったりね。
 確かにシステム化が進んだ現在のほうが、制作の環境としては良くなったと言えますが、その過渡期にあった『ボトムズ』という作品には「人を育てた」という側面も、多々あったと思うんです。事実「私はボトムズをバネにして頑張ったんだ」っていう方が、現在も第一線で活躍なさってるぐらいですから。